1990-09-30 | 鄭在淑

芸〈98〉〈一中 金忠顕〉巨匠の世界 自然を光で、光を色で…

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1874年4月、パリ市内にあった写真家ナダールのアトリエで開かれた「無名画家・彫刻家・版画家、会員展」は、官展を拒否する若い作家たちの在野展であった。モネ、ルノワール、ドガ、シスレー、ピサロら30代の若い作家たちは、型にはめたように写し取る技巧本位の既存美術を批判しながら、その時代の現実と感覚を反映する新しい画風の作品160余点を披露した。 ここに出品されたモネの「印象-日の出」は特に観覧客のやゆを受けたが、数日後、ある美術記者が『モネが語ったように、私が見ることができたものは平面的で91は「印象」だけであった。立体感も表現できない彼ら若造の作家たちは「印象派」と呼ぶのがふさわしい』という批評記事を書いたことで、彼らは印象派、印象主義という歴史的な名を得ることになった。 その問題の作品である「印象-日の出」は、文字どおり日出の風光をモネが感じた印象そのままに描いたものである。『今こそ窓を開けて自然を眺める時であり、アトリエから自然へ出る時だ』と語ったモネは、感覚で受け入れたその外界をまず動く光に変え、その光を再び色に移して画布に塗った。彼が光がよく見える水辺や空、雲、煙、雪景など変化する自然を好んで描いたのも、こうした理由からであった。 フランス北部の港湾都市ル・アーヴルの日の出の朝の海を収めた「印象-日の出」は、もうろうとした大気の中にすべてが溶けているようである。昇る太陽が空と海を赤く染め、その赤さが波に乗ってきらめく。霧がまだ晴れていない自然のおぼろげさを、モネは光の粒子に分解し、それを数多くの筆跡で表現した。 『あなたの前の対象が何であるかを忘れなさい。木でも野原でも、それが何であってもただ見なさい。そこには四角い小さな緑があり、またあちらには長い黄色の線があるという具合にです。その次に、あなたが見たままの色彩と形態で描きなさい。目の前の情景が純粋にあなただけの印象になるまで。』 モネにとって重要だったのは「何を描くべきか」よりも「どう見るか」であった。先輩画家クールベが画板を前に置いてぼうぜんと座っているモネを見て『暇ですね』と言うと『日の光を待っています』と応じ、クールベが再び『では背景の下塗りでもすればよいのではありませんか』と問うと『いいえ、待たなければなりません』と答えたという逸話は有名である。 1894年作「朝日のルーアン大聖堂」は、荘厳なゴシック式建築である「ルーアン大聖堂」連作20余点のうちの一作である。早朝から大聖堂の前で絵を描いていたモネは、ある瞬間、その建物が同じものではないことを発見した。頭を上げてみると太陽は中天に来ており、天地万物は朝方とは異なる色合いを帯びていた。モネは別の画布を置いて新しい作品を描き始めた。しかし空の真ん中の太陽はすぐに傾き始め、もう一つの画布が必要になった。こうして誕生したのが「朝のルーアン大聖堂」「正午のルーアン大聖堂」「夕方のルーアン大聖堂」などであった。時々刻々変わる太陽の下で万物を真実そのままにとらえたいというモネの欲望は、野原に置かれた同じ「積みわら」を15種類も生み出させ、さまざまな天候の中にある「ロンドンの祠堂」を10余点描かせた。 長年の野外作業のためにほとんど失明した晩年のモネは、自宅の池のスイレンを素材に、光の豪華な力がきらめく抽象的な作業へと進んだ。 同僚たちから『モネ、彼は目だけだ。しかしすごい目だ』という賛辞を聞くほど、生涯にわたって自然を綿密に観察したモネ。それでも死の直前に『いくら見つめても自然は分かることができず、神秘的なだけだ』という言葉を残すことで、印象主義の限界を告白した。〔鄭在淑(チョン・ジェスク)記者〕

[写真]◇「印象-日の出」[1872年作・50X65cm] [写真]◇クロード・モネ(Claude Monet)▲1840年フランス・パリ生まれ▲1859年「アカデミー・シュイス」で美術を学ぶ▲1926年ジベルニーで死去 [写真]◇「朝日のルーアン大聖堂」[1894年作・91X63cm]