1992-03-31 | 卓成万, 金政郁

[元老は語る]<10><題字:道谷 金兌庭>「『分配の均衡』を求め、共に生きる社会へ」李澔・前韓国赤十字社総裁

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年譜 ・1914年2月7日 慶北永川生まれ ・40年 東京大法学部卒 ・68年 名誉法学博士(慶熙大) ・42年 京城地方法院検事 ・48年 大検検事 ・49年 治安局長 ・50年 陸軍本部法務監 ・53年 准将で予備役編入 ・53年 国防次官 ・55年 法務長官 ・60年 内務長官 ・61年 弁護士開業 ・67年 内務長官 ・68~70年 法務長官 ・71~74年 駐日大使 ・74年 合同通信会長 ・75~81年 大韓赤十字社総裁 ・78年 蓮崗学術財団理事長 ・79年 憲法委員長 ・80年 立法会議議長 ・82~88年 大韓老人会会長 ・86年 ソウルカントリークラブ理事長 『国会議員というものは地域の代表ではないでしょう。前回の選挙運動の際、候補者たちの公約を見ると、そろって地方議会議員がやるような地域公約ばかりを乱発していましたが、それではいけません。今後、国会に入るなら国家全体を考え、それに伴う滅私奉公の精神で国事に当たらなければなりません。』 ぎょろりとした目つき、独特の強い慶尚道なまりが今も変わらぬ李澔(イ・ホ)前赤十字社総裁(78)。 身長182cm、体重82kgの巨躯に「青年の気概」がひらめく彼が、延禧洞の自宅で記者と向かい合い、第14代当選者たちに向けて放った開口一声であった。 第1共和国時代に治安局長・国防次官・法務長官を経て第2共和国時代には内務長官を務め、5・16後の第3共和国期には再び内務・法務長官を歴任した後に駐日大使として赴任するなど、官福に恵まれたことで有名だった李氏は、その後も半ば自らの意思、半ば周囲の要請で合同通信会長、大韓赤十字社総裁、立法会議議長、大韓老人会会長など主要な要職を幅広く歴任してきた。 剛直な性格と厳格さで名高いが、部下には人情の厚い上司として伝えられてもいる。 「官も軍もかなり良い方」 -これまで務めてこられたソウルカントリークラブ理事長職を先ごろ退かれたと聞いています。最近は何をして日々を過ごしておられますか。 『早朝に1時間、延世大の裏山を歩くことを除けば、午前中はずっと自宅で朝刊各紙を読んで時間を過ごします。英字紙ではとくにコリア・タイムスとヘラルド・トリビューンを読み、ニューズウィークも熱心に読んでいます。また月に一度、かつての内務部長官・次官と道知事らの親睦会である牧友会のゴルフにも出かけ、近所の屋内プールで30分間泳ぐことで健康を維持しています。』 -数日前、あれほど騒がしかった第14代総選挙が終わり、新たな政治構図が複雑に形成されようとしている時点ですが、最近のわが社会は政治以外にも経済・社会的に大きな転換期にあると言えます。とくに社会の基本骨格である倫理道徳の喪失現象は、並大抵ではない深刻な問題です。最近のわが社会の姿をどう見ておられますか。 『倫理道徳の喪失は、西洋思想の洪水によって、わが国の伝統的な儒教思想に基づくモラルが押しやられたところに原因があると思われます。人身売買のような破廉恥犯が増えているのも、儒教文化に基づく道徳の緩みのためです。私は経済はよく分かりませんが、経済問題の解決こそ、我々に与えられた最も核心的な課題だと見ています。今日の経済的成果があるまでには、困難な努力の過程がありました。今の段階で、特別な努力なしに成長を続けられると考えるなら大きな誤算です。これまで現れてきた成長過程での弊害を収拾しながら、再飛躍を成し遂げていかなければなりません。何よりも国民と政府、労使間の精神的再武装がなされなければなりません。経済とはその特性上、いったん停滞局面に入れば、いくら努力しても抜け出しにくい弱点がありますから。とくに重要なのは、生産的な雰囲気を維持しなければならないという共通の認識です。我々はこれまで日本経済のエコノミックアニマル的な気質を多く批判してきましたが、彼らが安定成長軌道に入った後、世界一の援助国の役割を果たしている今、評価は大きく変わっているではありませんか。国際的な影響力も経済が第一です。わが国もここで挫折してはいけません。』 -わが国の経済条件は、かつてのように腹が減って生きられないという水準からは抜け出しましたが、問題は中産層の幅広い拡大がわが社会の対立要因を除去する最も早い道ではないかという思いです。その点をどう診断されますか。 『私はわが経済を支えてきた力は勤勉節約の精神にあると見ています。少数の資本家が生まれたのは、土着資本が貧弱だった初期段階に産業育成策をとったためだと思います。彼らが無闇に好き勝手に使ってはいけません。陳腐な話ですが、これからでも資本家を育てるよりは分配の均衡を取っていかなければなりません。 働く雰囲気から 重ねて言いますが、持つ者の立場では自ら質素な生活で模範を示さなければならず、相対的に持たざる者は貧困を感じるからといって、急激に社会体制を打倒しようとしてはいけません。実際に自らの手で財を成した人ほど質素な生活をしているものです。苦しかった過程を忘れられないからです。一部ではわが経済の将来を楽観しているようですが、しかし国土の条件上、勤倹・節約が生活化されなければ楽観論の立つ余地はありません。最近まん延している過剰消費の風潮も一日も早く一掃しなければなりません。そうしてはじめて我々の将来が明るくなります。』 -大人たちの享楽風潮や過剰消費の行動はそれ自体でも問題ですが、青少年の非行や逸脱まで助長するという点にさらに大きな問題があると見ます。亡国的な麻薬が社会を食い荒らし、大型犯罪が相次ぐわが社会の病理現象を治す方法はないでしょうか。 『私はわが社会で犯罪が起きること自体はさほど問題ないと見ています。混乱期に乗じて大型犯罪を犯す場合は多いものの、社会が安定すれば次第に収まるからです。しかし麻薬だけはそうではありません。徹底的に取り締まらなければなりません。現在のわが治安力の水準は犯罪に追いついていないと見ていますが、新聞で報じられるよりもさらに深刻な水準に来ているのではないかという感じがします。警察をよく訓練して一つ一つ摘発する方法しかないので、国民の自覚を訴えることにも拍車をかけなければならないでしょう。一連の極端な病理現象の原因が国民の過剰消費・享楽風潮に起因していることを、骨身にしみて感じなければなりません。』 堅物で真っすぐな性格で、へつらう人を最も嫌う李氏は、歴代政権を通じて最も正論を述べる閣僚として伝えられてきた人物である。 慶北永川で富農の子として生まれた彼は、当時、天の星を取るより難しいといわれた日本・東京帝大法学部3年のときに高等試験司法科に合格する。続いて40年の卒業と同時に京城地方法院検事局司法官試補となり、官吏としての華やかで長い道程が始まる。 李起鵬が出馬を阻む 42年に京城地方法院、43年に順天支庁、46年にソウル高検、48年にSupreme Prosecutors' Office検事を経て同年ソウル地方検察庁次長検事となり、49年には初代治安局長に就いて、混乱の極みにあった国内治安を正すうえで大きな仕事をした。しばらく後に再び大検に戻った李氏は、6・25が勃発すると陸軍准将として戒厳司令部副司令官に任命され、53年の予備役編入まで休戦会談の韓国代表、法務監などとして活躍した。53年には予備役編入と同時に国防部次官を務め、55年9月には法務部長官、58年には日韓会談の韓国側代表として働いた。 4・19が起きたのは、彼が日韓会談に出席していたときだった。その数日後に許政内閣が発足すると内務長官に任命された彼は、それから4カ月後の5・16軍事革命で長官の座を退いたが、4・19事態の収拾のために腐心し、共和党政権が発足した後の67年6月、当時の6・8総選挙の後遺症を処理する内務部長官として再び起用され、このときから「官運の良い人」という評を得た。続いて68年に法務部長官となり70年まで在任し、71年の白斗鎮国務総理の時期には駐日大使となって外交官として活躍した。しかしその駐日大使時代、彼は「金大中拉致事件」に巻き込まれて苦しい試練を味わい、帰国後は合同通信社会長職に就いて言論界にしばらく身を置いたこともある。 75年、金用雨総裁の後任として大韓赤十字社総裁(第7代)となり、6年余りにわたって南北赤十字会談を主管してきた彼は、80年10月29日、第5共和国の最初の立法機構である国家保衛立法会議議長に任命され、国会機能を代行する機関の首長の座にも就いた。 つまり李氏は、自由党、共和党の時代を経て民正党政権の入り口に至るまで、困難な時期に知恵と信念で働いてきた政治社会の生きた歴史であり、生涯の公人であったといえる。 -政治にも一時足を踏み入れられたことがあったではありませんか。途中でうやむやになってしまいましたが、そのとき隠れていた話を少し明かしてください。 李博士と手を取り涙 『それは4・19以前の法務部長官時代でしたが、2年半ほど長官を務め、辞める時期にもなったので、故郷の永川から出馬しようと準備をしたことがあります。そのとき今は故人となった張基栄氏など親しかった同僚が積極的に勧め、故郷の人々の声援もまた大変なものでしたが、不幸にも自由党の公認も得られず、無所属出馬の意思まで李起鵬の圧力で潰れてしまいました。そのときの現職は李起鵬と非常に近かった金相道氏でしたが、私が出れば無条件で当選するというのが現地の雰囲気でした。あまりに腹が立って李起鵬を訪ねたところ、長官をもっと続けてじっとしていろと言うのです。その足で李承晩大統領にお会いし、その場で長官を辞めると申し上げ、自宅で数日間、腹立ちの病で寝込んでしまいました。』 -政治活動はそのときが最初で最後でしたか。 『そうではありません。5・16後に許政がつくった国民の党に加わって総務役を務め、当時の金守漢・宋元英氏らと一緒に走ってみましたが、思い通りにはいきませんでした。』 -第5共和国初期、立法会議議長のときにも政治再開を勧められたと聞いていますが、なぜそのとき断られたのですか。 『故郷の人々に対する罪悪感があったからです。自由党の時に出馬すると大口をたたいておいて翻意してしまったのですから…。5カ月余りの立法会議の活動が終わり、赤十字社総裁を務めていたときでしたが、全斗煥当時大統領が故郷からの出馬を勧めながら、「当選して来られたら国会議長をやってください」と言うのです。辞退しました。どうしても故郷の人々に顔を合わせる面目がなかったからです。』 -先生は官運の良い人と評されます。ご自身でも運だと思われますか、それとも努力でしたか。 『運があると思います。途中で少しずつ休んだこともありましたが、大韓民国初代治安局長を務めたのをはじめ、6・25後の国防次官、内務長官を2度、法務長官もまた2度務めたのですから、官運が良いのでなくて何でしょうか。自慢のようですが、私はその過程で一度も誰かを訪ねて何かやらせてほしいと請託を入れたり、運動をしたりしたことはありません。』 -生涯を順調な官僚生活で貫いてこられましたが、最もつらかった記憶があるとすれば。』 『やはり李博士のときに李起鵬が国会議員出馬をさせてくれず、彼と大喧嘩をして自宅で腹立ちの病になっていたときだと思われます。』 -李博士についての思い出も少なくないようですが。 『一つ記憶しているのは、4・19以前に法務長官を務めていたときでしたが、李博士の前で法律的な論理を展開して厳しく叱られたことがありました。そのとき李博士が聞かせてくれた言葉を今も生々しく覚えていますが、その方の言葉は「生存することよりも上位の法はない(There is no law higher than that of self preservation)」ということでした。また数日前、フランチェスカ女史の葬儀に参列しましたが、その場で過ぎた日の数多くの出来事が回想されました。5・16直後、民主党内閣で長官職を辞して休んでいたときでしたが、米国務省から咸錫憲先生と共に3カ月コースの米国旅行に招待されました。それで米国へ行く途中、ハワイに亡命中の李博士ご夫妻をお訪ねしました。当時は威圧的な雰囲気のせいで、誰もが怖がってお二人を訪ねられない時でしたが、伺ったところ、ご夫妻はこの上なく喜ばれながら私の手を取り、とめどなく涙を流されました。私も一緒に泣きましたが、その後、私が赤十字社総裁を務め、フランチェスカ女史が梨花荘におられた時、李博士に対する名誉総裁追贈証を持って訪ねたところ、そのときもまた私の手を取って泣かれました。』 落ち穂を拾った幼年期 -先生は国家の混乱期ごとに各種の要職を担われながら、上の方に最も剛直な発言を多くされてきたと伝えられていますが、普段の座右の銘や、とくに最近の若者に聞かせたい言葉があればお話しください。 『少し前まで騒がしかった唯一思想だとか何とかという理念的対立がやや静まったかと思ったら、今度は大学生が金を受け取って選挙運動をするのを見て、もう一度失望しました。そもそも大学生は高い理想とともに純粋でなければならないのに…。私の話をしてどうかとは思いますが、幼いころの私は比較的な富農である2万石の家の息子として育ちました。そのころの私の日課は、小作農が納めてきた穀物の落ち穂を庭で拾う仕事でした。それほど父から節約について徹底的に教育されて育ちました。また「正直であれ」ということを家訓として守ってきました。それが座右の銘といえば座右の銘です。重ねて申し上げますが、若者はその思考と行動において進取的で力動的でなければなりません。とはいえ我執にとらわれてはいけません。まさに自分だけが正しいという主張は、ややもすると極端主義を招くこともありますから』 文:卓成万次長 写真:金政郁記者