1992-08-31 | 徐翊源

[世界の市場] <17> 「言葉が即証書」契約書なしで取引 ロンドン・バルチックエクスチェンジ

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西洋映画で宮廷舞踏会が開かれる舞台のように天井が高く広々としたホールには、ざっと200人余りの紳士・淑女がたたずんでいる。ただし彼らはワルツのためではなく、取引のために集まったこの館の会員たちである。 ちょうど月曜日は「コーンデー」(Corn Day)、いまバルク船で米国から太平洋を渡ってアジアへ向かうトウモロコシについての取引が繰り広げられている。続いて中国のある倉庫に保管されたトウモロコシの3カ月後にアフリカのある地域で引き渡される値も、この場で決められる。 英国ロンドンのリーデンホール街一帯は歴史の長い金融・貿易会社が集まっているが、その中でもセントメリーアクス通りの「バルチック・エクスチェンジ」は、最も長い歴史とともに、かつて世界を支配した「グレートブリテン」(大英帝国)の栄華と伝統を継ぐ最大の商品取引所の一つである。 バルチック・エクスチェンジはまず、世界唯一の海上国際船舶取引所として有名である。どこかの港に停泊中、あるいは航海中の船舶を、ここのフロアで会員同士が売買するのである。現在、世界の船舶売買の半分程度がここの会員を通じて取引されている。 月曜日は「コーンデー」 もちろん購買者としては実物確認や各種情報を活用するだろうが、フロアで向かい合って交わした一言の約束で契約は成立し、最後まで守られる。 1823年、ここの会員たちは「バルチック規約」を制定したが、その内容は「Our Word Our Bond」(言葉が即証書である)に要約される。それでも当事者間で時に契約を破り、紛争の余地が生じる場合もある。その時は仲裁委員会が招集され事案を判定するが、それさえ破れば名前が「バルチックボード」というブラックリストに掲示され、ここから永遠に追放される。 こうした徹底した信用と権威、そしてバルチック・エクスチェンジの会員であるという自負心が、まさにこの取引所の伝統と名声をつないできた原動力である。 バルチック・エクスチェンジの会員は約600人で、会員社はすべて英国の上場企業であり、大部分が商品の輸送、または船舶所有を通じて国際交易に参加している。 したがって船舶による貨物運賃の決定と輸送契約はバルチック・エクスチェンジの主要業務の一つである。今年で47年目の勤続で、いまなお「ミス・ミッチェル」と呼ばれるインジ・ミッチェル広報担当官は『現在、全世界の不定期船貨物輸送物量の3分の2程度がここのフロアで決まる』と誇らしげに語る。 コンテナ船やロロ船(貨物自動車を丸ごと積む貨物船)など定期船業者も、物量確保のためにここを利用している。 航空機斡旋業も またここでは各種貨物の先物および現物取引も行われる。長い歴史の中で「バルチックの5大乾燥貨物」として通る鉄鉱石・穀物・石炭・アルミニウム原鉱・リン灰岩などは依然として取引が活発で、このほか砂糖・原木・その他鉱石・肥料・油脂種子(大豆・落花生・ヒマワリの種)なども取り扱っている。これらの商品は世界全域をカバーし、ロンドンの朝の銘柄がその日の午後に米国の市場でそのまま開かれ、価格に影響を与える。 不定期船の賃貸も主要業務の一つである。船舶賃貸は通常ドルで決済するが、▲一定区間を片道運航するチャーター用船▲距離に関係なく時間制で燃料費は使用者が負担する時間用船▲乗務員・保険料などは賃貸者が責任を持ち、空の船だけを借りる裸傭船──など3つの方法が主に通用している。 バルチック・エクスチェンジは1920年代から航空機チャーターの斡旋も始めたが、第2次大戦後、航空機チャーターは大きく繁栄し、航空機の売買・チャーター・修理斡旋などを担当するブローカー同士がバルチック航空機チャーター協会(BACA)という集まりもつくった。 バルチック・エクスチェンジはまた85年、取引所内にバルチック国際貨物船先物市場(BIFFEX)も設立した。貨物先物市場は船主・輸送業者・傭船者・仲介人に対し、貨物輸送に伴う運賃の不規則性を防ごうというもので、貨物先物取引契約は毎日告示されるバルチック貨物指数(BFI)に従って料金が策定される。BFIは15の主要品目の貨物運賃で構成され、指数1ポイント当たり10ドルが上下することになる。しかし現在、この貨物先物市場は一般商品の先物市場である「ロンドン・フォックス」に場所を移し、同じ役割を遂行している。 このほか87年8月にはトウモロコシ取引も始め、毎週月曜日はフロアで全世界を対象としたトウモロコシ市場が開設される。 バルチック・エクスチェンジの起源は18世紀半ばにさかのぼる。当時の英国は世界の5大洋6大州を駆け巡り、国力と交易が最も威勢を振るった時代であった。 当時の荷主・船主・仲介業者・購買者たちは、今も金融・貿易会社が密集するリーデンホール街を本拠地とし、街頭で会って取引を成立させたり情報を交換した。 そのうち「バージニア・アンド・メリーランド」は1744年に「バージニア・アンド・バルチックハウス」と名を変えた。バルチックという名を付けたのは、当時の主要交易品目である原木・毛皮・革・石炭などが、スウェーデン・フィンランド・ロシア・ドイツ・ポーランド・デンマークの国境に囲まれた内海であるバルト海で多く取引されたためである。 伝統的方式を固守 バージニア・アンド・バルチックハウスの常連たちは引き続き世界的な大取引を担い、重商で繁栄した。ただしナポレオン戦争や米国が植民地から離脱した時にはしばらく打撃を受けもしたが、こうした試練がむしろ常連同士の結束を固める契機となった。 常連たちは1823年に「バルチック・エクスチェンジクラブ」という集まりをつくり、クラブ規約を制定した。この時「Our Word Our Bond」が採択され、この誓いは今日までメンバーたちの伝統として受け継がれている。 バルチック・エクスチェンジは1900年に「ロンドン船舶取引所」と合併し、1903年にセントメリーアクス通りに現在の建物を建てた。 その後、品目と交易額は大きくなったが、取引方法は依然として伝統を固守している。厳格な審査で資格を得た会員たちは地下のレストランやダイニングルームで社交と情報を交換し、1階の片隅の「Buy and Sell」という巻き紙に必要事項を手で書き込む。そして実際の取引はフロアに集まり、中央の司会者の進行に従って行われる。 バルチック・エクスチェンジは現在のメインホールの隣に連係ビルを建てたが、1956年11月の竣工時にはエリザベス女王が開幕テープを切ったことで、英国内での名声や位相を間接的に証明してくれる。 もちろん急変する時代に伴い変わったものも多い。「ミス・ミッチェル」は『10年余り前から会員の往来が目に見えて減った』と語る。代わりに会員たちはテレックス・移動電話はもちろん超高速データバンクなど最上の情報システムを備え、外で取引を成立させる場合も多いという。 バルチック・エクスチェンジは昨年1年間で5億ポンド(7850億ウォン)の貿易外収支を稼ぎ出した。このように数百年にわたり繁栄してきた基盤は、今も取引の主流が依然として100年前のチーク張りの床の上で行われ、どれほど新しいメカニズムが登場しても「Our Word Our Bond」の精神を固守してきた伝統と信用のためであるようだ。【文・写真 徐翊源記者】 [写真]取引所のメインホール バルチック・エクスチェンジのメインホールでの取引風景。数百年変わらぬ取引慣行を守りながら、世界の船舶の半分、各種船舶貨物の3分の2程度がここで取引されている。 [グラフィック]1823年、バルチック・エクスチェンジがクラブとして組織される際につくられた紋章。「Our Word Our Bond」(言葉が即証書である)は伝統と信用の礎石となっている。