私がこの双門洞に引っ越してきたのは1986年5月5日、子どもの日だったと記憶している。以来7年を暮らす間、私は一度も住環境に不満を抱いたことがない。私の住まいである好日堂からは、北漢山の山容が十二幅の屏風のように広がっているのを一望できるからである。 北漢山の姿はいくら眺めても飽きがこない。好日堂から歩いて10分でその山裾に抱かれることもできる。午後には必ず軽くでも山行を楽しむのだが、同じ道を行っても行くたびに風光が違って見え、新しく感じられるのが山行の妙味である。 北漢山のツツジが見応えがあるということを、私は引っ越してきたその年には知らなかった。翌年の春にようやく知った。その日も私は書斎に座って仁寿・白雲・万景の秀麗な三つの岩の顔を眺めていたのだが、いつもとは違い、その岩峰がまるで酒に酔ったように上気して紅潮を帯びているように見えた。あれは何事だろうか。直接行って確かめてみたいという気になった。 森の中に入るや、私はすぐにその秘密を知った。あちこちに満開のツツジの雪崩に出会ったからである。ちょうど夕日の光を受けて、ツツジの花々は半透明の恍惚境をなしながら一斉にろうそくを灯していた。裾から山上へと燃え上がっていく「ツツジろうそくの宴」、ふとそんな言葉が浮かんだ。春になればツツジに染まらない山野がこの国のどこにあろうかとはいえ、まさにこの北漢山でこれほど凄まじいツツジの雪崩に出会うとは思わなかった。もっとも、だからこそ「ツツジ稜線」という名も持っているのではないか。 その後、私は毎年春が訪れると北漢山のツツジ探索に出かける。ある場所は「ツツジの丘」と名づけ、また別の場所は「ツツジの海」と呼ぶことにした。そんな場所を私一人だけが知っているのは申し訳なくて、何度か知人たちを案内したりもした。 牛耳洞には名だたる詩人が多く住んでいる。そのうちの四人、李生珍、洪海里、林歩、蔡熙文はこの地のいわば主のような方々といえる。「牛耳洞」という詩の同人誌をすでに11集も出している。そして毎月最後の土曜日には、松林近くの道峰図書館で「牛耳洞詩朗読会」を主導してきている。道峰・北漢などの名山の裾で暮らしている人々は、一千万のソウル市民の中でも特別に祝福された人々といえるが、そんな良い環境から名詩人が出ないとなれば面目が立たない。その意味で、彼らの存在と活動がまさに牛耳洞の誇りとしていっそう輝く時が必ず来るだろう。 昨春のことだった。牛耳洞詩朗読会が終わって会食する席で、私はこんな提案をした。「今後、毎年ツツジの咲く頃に北漢山で山神祭を一度挙げてはどうでしょうか。ご存じのように北漢山が死んでいっています。大気汚染や酸性雨のせいだけではないようです。それよりもっと根本的なのは人心の荒廃でしょう。山のあちこち、どこにでもごみが散らばっているのを見れば分かります。我々がこのように山を汚し虐待し続けるなら、必ず山の報復を受ける日が来るでしょう。詩人が先に立って山神祭を挙げるということは、山神の怒りを解くことにもなるし、自己浄化のためにも良いだろうという思いがします」 皆が大賛成だった。ただ、山神祭というとクリスチャンの夫人の拒否反応があったというある詩人の場合を考慮して、その名称は山神祭ではなく「ツツジの花祭」に落ち着いた。もっともそれで悪いこともない。牛耳洞同人たちの綿密な計画と準備に助けられ、ついにある日曜日の真昼、北漢山の中腹の心地よい場所でツツジの花祭が挙行された。洪海里詩人の司会で、まず祭主である李生珍詩人が焼香拝礼し、続いて林歩詩人が祝文を朗読した。そして私が焼香拝礼し、詩「北漢山のツツジ」を朗読した。20人近い参加者全員が真心をこめて焼香拝礼した。 供え物を並べて飲福に入った。宋性黙氏の大笒と尹文基氏の短簫が興を添えてくれた。参加者全員が交互に詩を一首詠み、あるいは歌を歌った。ツツジを浮かべた焼酎の杯を傾けながら、ゆらりゆらりと舞を舞ったりもした。人々の顔色はそれぞれ美しいツツジの花の色に染まっていた。 おそらくこのツツジの花祭は、これから長く受け継がれていくことだろう。北漢山と詩人たちが健在である限り。 [写真] ◇北漢山を大切にし愛する山の友人たちとともに(右端の帽子をかぶった人物が筆者)。
1992-11-30 | 서울경제
[楽山楽友]詩人と北漢山「ツツジ祭り」
本文はAIによる機械翻訳です。見出しは原文(韓国語)のまま表示しています。正確な内容は原文をご確認ください。






