1994-02-28 | 黃命 <시인·한국문인 협회이사장>

楽山楽水 釣り礼賛

本文はAIによる機械翻訳です。見出しは原文(韓国語)のまま表示しています。正確な内容は原文をご確認ください。

人々が食べていけるだけの境遇になれば、いわゆる余暇の善用だレジャーだといって、それぞれ自分の好みに合った趣味生活を志向するのは極めて自然なことである。 もともと人というものは、その性格によって能動的で積極的な行動をとる人がいるかと思えば、何事にも慎重で消極的な人もいるものである。 騒がしい都市生活を離れ、のんびりとした田舎道を走っていて、どこか奥まった小さな貯水池にでも出会えば、そこにどっかりと腰を下ろして釣り竿を伸ばすとき、体も心もどれほど安らぐか、知る人は皆知っていることである。 時々、周囲の友人たちと酒席で論争ならぬ論争を繰り広げることがある。そのたびに主題はおおむね釣りの話である。ある者は釣りと聞けば頭から嫌がる。いったい水辺にひとりぽつねんと一日中座っていて何をしているのか分からない、というのである。そうかと思えばある者は、口が乾くほど釣り礼賛論を展開する。もちろん人によって何であれ好きにもなれるし、嫌いにもなれる。しかし、むやみに他人の趣味生活を理解しようとせず、自分の主張だけを前面に押し出すのは穏当ではない。 端的に、山を好む人と釣りを好む人がそれぞれ自分の主張だけを押し通せばどうなるだろうか。あなたは山が何がそんなに良くて毎週山にばかり登るのかと問えば、山を好む人はおおむねこう答えるだろう。山はいつも言葉がなく、数多くの木と岩と渓谷を抱えていながらも自らを誇示しない、その謙遜な身の処し方が我々にどれほど大きな教訓を与えてくれるかと。だからこそ、その身の処し方を学ぶために山に登るのだと言うだろう。 また、ある人がいて、あなたは釣りが何がそんなに良くて毎週末になると日常のすべてを振り払って水を求めるのかと問えば、釣りを好む人は何と答えるだろうか。ただ水辺に行って座っているのが良く、そこに時折魚でも掛かればどれほど楽しいことかと言えば、それで十分である。そこに何か特別な理由が必要だろうか。 つまり、誰も他人の好みや趣味をみだりに自分の枠に合わせようとしたり、自分の尺度で測ってはならないということである。山が好きなら山に登ればよいし、水が好きなら水を求めればよい。いたずらに他人が好む釣りをあれこれと咎めたり批判してはならない。どこにそんな権利があるだろうか。 釣りを好む私は、必ずしも魚を釣るため、さらには魚をたくさん釣るために釣りをするのでは決してない。今は故人となった小説家の郭鶴松先生は当代に名を知られた釣り人であった。彼がいつか「釣りとは出かける楽しみで行くものだ」と語られた言葉が思い浮かぶ。まことに繰り返し味わってみるに値する言葉である。実際、魚だけを捕ろうとするなら船に乗って網を広く張れば、間違いなく多く捕れるだろう。しかし釣りは捕ることだけが究極の目的ではない。このような考えは、筆者の釣友である金時哲(釣り振興会副会長)、鄭僻峰(詩人)、徐基源(小説家・釣り振興会会長)、洪性裕氏(小説家)らも皆同じであろう。 やがて氷が溶け、天候が緩めば3月は間違いなく巡ってくる。3月になれば花が咲き鳥が鳴くのも良いが、私にはそれよりも好きな釣りに出かけられることで、新しい春がいっそう待ち遠しい。この胸の高鳴りを味わうために長い冬を耐えていたと言えば、言い過ぎになるだろうか。 ◇昨年夏、文友であり釣友である金時哲・鄭僻峰・洪性裕氏らとともに京畿道平沢郡の宮安池で釣り三昧に浸る筆者。