1994-05-31 | 玫堂 趙东植

財界回顧 <2039> 私のオーディオ人生〈26〉

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題字:權昌倫 70年代後半以降は、東原電子が国際的に伸びていった時期であった。 ロサンゼルスに米国現地法人を設立し、欧州と日本にも活動拠点を確保した。81年6月初めにはベルギーのブリュッセルに欧州事務所を開設し、同月には東京に日本事務所を開設した。欧州事務所は欧州全域での販促活動を展開する一方、スピーカーユニットを完成品として組み立て、欧州各代理店に供給してインケルを欧州一帯に根づかせた。日本事務所は輸入部品の適時供給および緊急資材の円滑な手配、適正価格による各種部品の導入、そして開発業務に関する迅速な情報収集と市場動向把握業務などを遂行した。 欧州事務所は85年10月にドイツのフランクフルトへ移転し、欧州現地法人であるINKEL EUROPE GMBHに拡大改編し、86年6月には日本事務所も支社に改編した。これにより会社は米国、欧州、日本の3大海外拠点を確保することができた。 81年にこのように海外拠点を確保した私は、海外で大規模なバイヤーと接触する一方、先進国との技術格差を縮めるための努力を傾注した。その結果、81年11月にはドイツのテレフンケン社をはじめとするいくつかのバイヤーと950万ドルに達する物量を輸出する契約を結び、82年度の輸出目標であった1800万ドルの半分を超える実績を一度に実現することができた。 また同年10月には、オランダのオーディオ名門であるフィリップス社と国内初のオーディオディスク(DAD)に関する特許使用を契約し、既存レコードの100倍の高音を出すことができ、光線で音を再生する画期的な方式のデジタルディスクプレーヤーを生産・輸出して、わが国のデジタルオーディオ時代の幕開けを早めもした。 私は生産施設を現代化し、日々増大する輸出物量に対応するため、81年11月に工場を大きく増築した。その際、社員福祉館も併せて新築し、現代式の構内食堂や休憩室、売店、講堂、図書室、医務室、相談室などを設けた。 その時から今日まで、私は特別な約束がない限り、常に構内食堂を利用してきている。もちろん食堂で私に経営者だからといって与えられる特典はない。私も一般従業員と同じように列に並び、従業員とともに食事をしながら話を交わす。社長だからといって割り込んだこともなく、職員たちも私に先に食事をせよと前の列を勧めることもない。私は食器洗いも職員たちと一緒にする。他の会社の場合を見ると、上の者が先に食事をしたり、幹部食堂を置いたりするが、こうしたことは職員との違和感を助長するだけである。 実際わが社は、80年代末に民主化の風に乗って全国の事業場を席巻したあの激しい労使紛争の時も、大きな困難なく過ごすことができた。インケルは労使紛争のない会社であり、私はしばしばその秘訣は何かという質問を受ける。その秘訣は簡単だ。労使が互いに立場を入れ替えて考えることである。 私は常に自分自身が労組委員長であると考える。労使問題は互いに葛藤があって生じるものだが、常に相手の立場を考えて対話すれば問題は解いていける。私は社長だ、会長だという立場よりも、祖父や父親の位置で職員に接する。労働者より早く出勤し、ともに生活していると、職員たちは会社を雇用者と被雇用者の関係ではなく、家族的な関係と考えるようになる。それで他社がわが社を「家族的な会社」だと言って羨ましがるという。 ◇81年にオランダのフィリップス社と技術提携契約を締結している筆者。(右から3番目)