1994-07-30 | 金珏中

財界回顧 題字:権昌倫 <2276> 私の繊維人生(4)

本文はAIによる機械翻訳です。見出しは原文(韓国語)のまま表示しています。正確な内容は原文をご確認ください。

<京紡会長> ケンタッキー州のベリア大学は学生が1500人程度しかいない小さな学校で、大学院も工科大学もない、米国では小規模な大学といえる。田舎の学校だっただけに学費は安かった。ハーバード大のような米国の一流大学ではなかったが、苦学をしてでも能力次第で学べる所だった。 ベリア大学には韓国人学生が多く通っていった。韓国人の中で最も先輩に当たる方は自由党時代に外務部長官を務めた曹正煥(チョ・ジョンファン)先生で、同氏は55年にベリア大学で名誉博士学位を受けた。そして学界に進んだ崔允愛(チェ・ユンエ)、玄在璟(ヒョン・ジェギョン)両氏、農協に勤務した洪達天(ホン・ダルチョン)氏などが輩出された。 ベリア大学と韓国の関係で欠かせない方は朴仁徳(パク・インドク)先生である。どういう理由かは分からないが、朴先生はベリア大学の創立精神と教育方針、学校運営方式に一言でいえば心酔していた。結局、朴先生は米国各地を回って募金をし、韓国にベリアという学校を設立し、逝去後は令嬢の金惠蘭(キム・ヘラン)氏が後を継いで学校を運営していると聞いている。 私がケンタッキーに留学していた当時はまだ韓国人学生の数が少なく、州内の韓国人学生は年に一度ほどピクニックを開いていた。外務部長官と国務総理を務めた盧信永(ノ・シニョン)氏、駐ニュージーランド大使を務めた李春□氏もその時に親しくなった学友である。二人とも昼は学費を稼ぐために働き、夜は勉強をするため疲れ果てて、時折鼻血を流しているのを見た記憶が新しい。 どうにか満3年が過ぎ、56年6月にベリア大学を卒業することになった。遅い年齢で行ってきちんと勉強できるのかと心配していた両親も、卒業することになったという知らせを聞いてうれしいと手紙をくださった。 家からはすぐ帰国してはどうかという勧めもあり、31歳で博士学位まで取るには少なくとも4年間さらに学業を続けなければならないだけでなく、いくぶん勉強にも疲れていた。 また当時の米国では、理工系の訓練を受けた者であればあちこちから就職の誘いがあった。ちょうどピッツバーグ市にある化学会社が月給520ドルで来ないかと言ってきた。そのうえ永住権・市民権を保証するのはもちろん、勤務しながらピッツバーグ大学大学院で勉強を続けられるよう取り計らうと提案してきた。その提案に心はかなり傾いていた。 私がこうした気持ちを主任教授に話して相談したところ、主任教授は就職するよりも必ず大学院に行くよう懇切に勧めた。いつでも大学院に行ったことを後悔することになれば、自分が責任をもってその程度の就職を斡旋すると付け加えた。 当時は米国で理工系を学んだ学生には黄金時代だった。就職はいつでもでき、大学院生にも生活費まで出すスカラシップがいくらでもあった。 そうしたなか、学生部長がふとした機会にテキサス大学にはスカラシップの種類が多いから手紙を書いてみろと言うので、手紙を書いた。すると助教の口があるが来る気はあるかという返事を受け、テキサス大大学院へ行くことに心を決めた。 テキサス大学は卓越した論文を出す教授たちとポストドクター訓練を受けに来た学者が多く、研究活動が活発な所だった。助教を務めれば学費の問題を解決でき、大学時代に学んだ基礎を固められる利点があった。しかし大学院の科目を一つほど減らさなければならず、そのほかにもいろいろと時間を取られなければならなかった。 私はここで初年度は実験助教をし、2年目から研究費を受けながら自分の勉強だけに集中できる研究助教をするという約束を指導教授から得た。 ◇京紡70周年記念式を終えて本社社屋前で役職員とともに。