1995-11-30 | 尹能善 <미래사회硏 회장〉

財界回顧 題字:権昌倫(クォン・チャンリュン)<2509> 経済団体人生40年 雅石 <24>

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4・19直後、商工会議所は61年4月の選挙で任意団体時代に第2、3代会長を務めた全用淳氏を再び会長に選出した。しかし3カ月後に彼が参議院議員になると辞任することになり、61年9月に特別議員である天友社の全宅珤氏がその後任となる。しかし全会長もわずか3カ月後に商工部長官として入閣することになり、それまで副会長を歴任してきた大信証券の宋大淳氏が会長となる。そして宋会長は61年12月から5・16後の67年8月まで2期にわたり会長を務めた。 全宅珤会長は自他ともに認めるアイデアマンであり、貿易の鬼才であり、海外移民、保税貿易の開拓者でもある。ある日、全会長が香港旅行から戻って私を呼んだ。 彼は、香港の貿易を見るとすべての原資材を保税倉庫で税金を払わずに加工し、これを再輸出することで大きな利益を得る加工貿易の天国だったと伝え、そうした制度を研究してみろと指示した。 私は何日もかけて貿易辞典や貿易史をすべて手繰ってみたが、そのような絶妙な制度はどこにも見当たらず、自由港である香港でのみ可能なのではないかと思われた。 すなわち香港はすべての輸入品に関税がなく物品税のみ5%程度だったので、文字通りの輸入自由港なのである。私は悩んだが、どうにかして全会長の見事な着想を実現させてみようと心に決めた。 わが国の関税や貿易手続きでは保税倉庫、保税運送、保税区域などの言葉を見つけることができ、貿易には加工貿易という言葉があるだけだった。 そこで私はこれを合成して「保税加工貿易」という新造語をつくり、その性格、手続き、効率性などの小さな解説冊子を出して関係各方面と業界に配布した。 そして商工会議所の建物の玄関内に「保税加工案内所」を開設し、本格的に新しい貿易方式を広く宣伝した。それで生まれたのが最初は造花だったが、あまり成果は上がらなかった。 その後「ホルチギ」という言葉が登場するが、これは日本の原資材を持ち込み関税を留保したまま指定区域内で加工して日本の生地をつくり送り返して輸出する委託加工貿易で、しばらく盛行した。 当時カツラは輸出品として高価で精密な人手が必要だったが、人毛を集めてカツラをつくり米国市場に売り、人毛に劣らぬ原資材が日本で開発されるとこれを持ち込み、その後4~5年間、米国人3人のうち1人は韓国のカツラを使用したという説があるほど一大ブームとなった。 リンゴとバナナを物々交換する台湾との求償貿易に乗り出したソウル通商の崔準圭氏が、このカツラ輸出の第一人者として登場したのは周知の事実である。 後に乱立と過当競争で多くの会社が店を閉じ、ごく少数のみが生き残ったのは、一時のブームが虚像であり、貿易の浮沈という大きな教訓を得たと言えるだろう。 全会長は、卵を香港に輸出すれば24時間後に孵化するのでヒナの輸出が有望だとして、親しい友人の京紡・金容完会長と黃清河氏を説得し、ソウル郊外に養鶏場まで設けたが失敗したと承知している。 そのほかにも全会長はカナダへ移民を送り、コンテナで輸出品を運びながら絨毯の保税加工だとか、イタリアのポプラの木を輸入するなど、開拓者的な気質を十分に発揮した。 後には天友社テレビまでつくり出したのだから、優れたパイオニアと言わざるを得ない。60年代にフィンランドで開かれたあるセミナーに参加した後、当時の韓国人は近づくこともできなかった旧ソ連の「レニングラード(現サンクトペテルブルク)」を金容完会長と2人だけで旅行したのは、極めて異例のことである。