1996-01-31 | 雅后 尹能善

財界回顧 <2542> 経済団体人生40年 雅后 尹能善<未来社会研究所会長><57>

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————題字:權昌倫(クォン・チャンユン) 60年代後半、わが国の金融が非常に立ち遅れていたことは誰もが知る事実である。 台湾を訪れた私は、台湾がわが国より10年先を行っている点が二つあると見た。一つは、わが国より国土も人口も小さい台湾に、国際金融公社(IFC)との合作による国際金融会社が二つもあるという事実である。もう一つは玩具輸出が非常に活発なことで、それは国際的に名声のある西独やデンマークの製品をコピーし、半値以下で世界市場に輸出しているのである。これが可能な理由としては、プラスチック工業がわが国より格段に優秀であり、また金属工業と電子産業が扇風機をわが国に輸出するほど先を行っていて、この金属工業とプラスチック工業、そして電子産業を結合して最先端の玩具を作ることができるようになった点が挙げられる。 わが事務局はまず、国際金融情報と国際資本を誘致できる民有・民営の国際金融会社が必要であることに着眼し、これに関する報告書を出していた。 これに先立ち全経連は67年1月に市中銀行の民営化を建議したが、政府がこれに同意しなかったため、その代案として前後5次にわたる建議を通じて、乙種銀行と私債を吸収する投資金融会社の設立を促した。 これに対し政府は乙種銀行の代わりに地方銀行と改め、67年10月に初めて釜山銀行と大邱銀行が設立され、その後各市道に地方銀行ができることで民間銀行の誕生を見たことは、わが金融史において画期的な発展と言えるだろう。また72年8月に投資金融会社法が制定され、短期金融を担当する民間金融機関ができ、金融の民主化が急進展することになるのである。 こうした経緯とかみ合って、民有・民営の国際金融会社の設立は全経連の宿願となった。 国際金融会社を作るために専門家による研究チームを構成したが、事務局内の尹炳哲(ユン・ビョンチョル、現ハナ銀行頭取)、卞恭壽(ピョン・ゴンス、著名な卞榮魯(ピョン・ヨンノ)教授の子息)、趙成煥(チョ・ソンファン、現西江大教授)と、実務者として朴昌洙(パク・チャンス、現長銀証券社長)らがメンバーである。 第2次IFC調査団の団長はダイアモンドという方だった。この方は非常に好意的で、特にその名前が良いので、我々は間違いなく実現するものと信じたのである。 この会社は資本を世界化したことと、国内金融機関と民間主導で構成された、文字通り株式公開の手本と言うことができる。 初代理事長に洪在善(ホン・ジェソン)全経連会長、社長に金鎭炯(キム・ジンヒョン)氏(前韓国銀行総裁)を招聘し、資本構成は外国金融機関25%、IFC14%、国内銀行団15%、保険団15%、民間株主31%となった。 わが国最初の民間金融機関を指揮することになった金社長は銀行員らしい紳士で、あまりにも慎重な性格だった。気が急くわが事務局は、金社長が決裁書類を三日以上も熟考するため、暗に圧力をかけたりもしたが、彼は首をかしげながら熟考に熟考を重ねる慎重派だった。 ともあれ、この会社がKDFC(韓国開発金融会社)として発足し、さらに長期信用銀行へと発展し、汝矣島に立派な本社ビルを持つようになったことは、わが経済界の大きな成果と言わざるを得ない。 この金融機関に対する関心は、4・19直後に官治金融の見本であった銀行を民営化したものの、株式を引き受けた財閥が5・16後に再び不正蓄財と目され、銀行株がすべて還収された事実を想起させる。この時の大株主であったサムスンの李秉喆(イ・ビョンチョル)氏、大韓製粉のイ・ハンウォン氏、全紡のキム・ヨンジュ氏、三湖紡織のチョン・ジェホ氏らは銀行に対する執念が相当なものだったが、還収されてその夢が消えたためであろう。 そのうち今なお銀行の大株主として残る方もいるが、国内銀行が民有・民営で自立する時期はまだ遠いようにしか思えない。