方外奇人(29) 『それならば法師様、すべての方術書の内容は信じられないのですか』 『そうではない。あるものには信が置ける部分がある。それはこうした場で貴重な時間を浪費するよりも、直接実行を通じて確かめる方が効果的だ。ただ、私が主張したいのは、虚と実を見分けられる慧眼を養えということだ。あるようでいて実体がなく、ないと信じていても形が現れる方法に慣れねばならないということだ』 『?…』 元法師は快くない表情で舌を鳴らしてから、後の言葉を落とした。 『たとえば行法だの行術と呼ばれるものを例に挙げられる。これは簡単に言えば食べ物を食べる方法だ。宮中で皇帝がリンゴや梨を食べるときはどんな方法を使うと思うか。果物ナイフでむいて食べるだろう。だが、ある者はそれを服にごしごしこすって丸ごとかじりつくように食べることもあろう。これは方法にすぎず、過ちを論じることはできぬではないか。こうも言えるだろう、むいたリンゴや梨を皇帝が自ら口に入れることもでき、皇后や後宮たちが入れてやることもあるではないか。行法だの行術だのというのは、まさにこういうことだ。頭を痛めて考える必要などない』 『法師様のお話のとおりなら、仙道を追求する諸流派の秘技や手法は信じられないということになりますね』 『そうではない』 『いったい何をおっしゃりたいのか…』 『全体が無用だという話ではないと言っておるのだ。私が言うのは、部分的には彼らの主張に説得力があるということだ。昔から伝わる古い方術書はそれぞれに確率を持っている。一つの手法を記録として残すときには、数十、数百回の実験を経ているからだ。まさにその記録の中に、真実を装った罠があるということだ。あまりに精巧に緻密に組まれているので、それを世の抜けた輩が信じてしまうのだ』 房中術に関する一般的な記録は、大部分が完璧に記されているという。たとえばどんな女が楽しみを与え、体に良いのか。またどの女が男の命を急いであの世へ送ってしまう体質を持っているのか、などである。 『…罠はとんでもない所にあるものだ。ごく平凡に見え、神経を使わなくてもよい所だ。まさに臨御という項目がそういう脈絡だ』
1996-08-31 | 姜永洙
小説 素女経〈456〉
本文はAIによる機械翻訳です。見出しは原文(韓国語)のまま表示しています。正確な内容は原文をご確認ください。






