2006-04-30

[今日の経済小史/5月1日] ロンドン万国博覧会

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1851年5月1日、ロンドン博覧会の開幕式。巨大な展示場に人々は我を忘れた。ガラスと鉄骨のみで建てられたサッカー場11個分の広さの3階建て展示場は「水晶宮(Crystal Palace)」と呼ばれた。

1万3,000余点の出品作も来場者を熱狂させた。プロイセンの鋼製大砲から米国の農機具、オーストリアの家具、フランスの高級織物とスイスの時計、インドの綿製品など世界最高の工業製品が優劣を競い、古代中東の楔形文字の粘土板や中国の陶磁器も披露された。

最も人が集まった場所は、展示場の半分を占めた英国館。機関車や船舶用エンジン、高速印刷機、工作機械は他国の製品を圧倒した。10月中旬まで続いた博覧会の来場者は延べ620万人。予想を超える入場収入のおかげで生じた黒字18万6,000ポンドは、博覧会を立案したアルバート公とビクトリア女王夫妻の博物館建設費用に使われた。

ロンドン博覧会は経済史にも刻まれている。最初の万国博覧会であったうえ、「産業革命こそ生きる道」という認識を広めたためだ。産業はもちろん、発達した通信・交通制度と都市環境を直接目撃した世界の人々は、それぞれ母国に戻って技術開発を叫んだ。1848年に欧州を席巻した革命の熱気が産業化への関心へと変わった転機が、まさにロンドン博覧会だったとの見方もある。ロンドン大会は「全世界産業福音化大会」だったわけだ。

ロンドン大会以降、万国博覧会は国力宣伝の場へと変わった。フランスは博覧会を集中的に開催し、英国に追いつくために活用した。エッフェル塔もパリ博覧会のための臨時造形物だった。ドイツと米国が先進国として認められ始めたのも、ハノーバー、シカゴ博覧会以降である。韓国は規模の小さいエキスポを開催しただけだ。2010年の麗水大会を狙ったが上海に敗れて失敗し、2012年を期している。

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