2006-07-31

[今日の経済小史/8月1日] 大韓帝国の軍隊解散

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[今日の経済小史/8月1日]大韓帝国軍隊解散

クォン・ホンウ編集委員

1907年8月1日、ソウル東大門の訓練院練兵場。軍人が一人、二人と集まってきた。大韓帝国軍隊の解散式を行うためである。予定時刻の午前10時を過ぎ、午後2時までに集結した兵力は1812人。対象人員の半数が不参加だったが、統監府は急いで解散式を行った。

抵抗が伴った。侍衛第1連隊第1大隊長のパク・スンファン参領が激憤のなか自決すると兵士たちは銃を取ったが、日本軍はあらかじめ弾薬庫を占拠していた状況。弾薬が尽きた午後11時ごろ戦闘は終わった。ソウル市街地の銃撃戦を見守った米国人医師エビソン(セブランス病院の共同設立者)が「弾薬さえ十分であれば韓国軍が勝利していただろう」という言葉を残したほど、惜しまれる戦闘だった。

地方の状況も同じだった。7つの鎮衛大隊のうち原州と江華島・水原で一部が抗戦したが、8月10日ごろには3分の2が解散を終えた。散った兵士たちは義兵に合流し、抗日義兵の戦力は強まったというが、軍隊の崩壊は亡国につながった。

誰よりも衝撃が大きかったのは、ハーグ密使事件を口実に強制退位させられた高宗皇帝だった。極度のインフレのなかでも国家総支出の25~40%を投入して軍隊を育てたからである。財政規模自体はわずかだったが、兵力数が少なかったため、大韓帝国軍の装備は列強に匹敵した。

問題は雑多な構成だった。米国・英国・フランス・ドイツ・ロシア・日本製の小銃が混在し、補給と運用の統一が難しかった。牛金峙の戦いで東学軍を崩した米国製ガトリング機関砲はもちろん、英国製アームストロング砲や最高級のドイツ製クルップ砲も、軍隊解散という危機には使われなかった。日露戦争後に勢力を得た親日派将校が重火器を日本軍の陣営へ横流ししたためである。放漫な財政、国防予算・装備の効率的管理の不在、国家反逆勢力が絡み合い、軍事力の喪失と国家滅亡を生んだわけである。

入力時間:2006/07/31 18:28

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