2009-05-31

[今日の経済小史/6月1日] 輪中堤

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1968年6月1日午前10時、汝矣島。島の周囲7533mをつなぐ輪中堤の竣工式が開かれた。行事に出席した朴正煕大統領は、堤防の40万3001枚目の花崗岩ブロックに「漢江開発」という揮毫を刻み込んだ。汝矣島だけでなく、漢江と江南の開発もこの時から火がついた。

開発前まで汝矣島は、日本統治期に建設された軍用飛行場以外は荒れ地に等しい地域だった。ベトナム派兵国軍将兵の面会場に使われるほどだった。渇水期になると、栗島と永登浦をつなぐ巨大な砂地が現れることもあった。

宅地開発と水害防止を目的とした汝矣島開発は電光石火のように進められた。砂地を合わせて200万坪ほどの汝矣島の面積を縮め、85万坪を囲む16mの堤防を築く工事期間は当初1年と定められていたが、5カ月で終えた。昼夜なく交代人力を投入し、近隣の栗島から出たトラック4万台分の石を建築資材として使った。

汝矣島開発は、目的のために手段を選ばない開発年代の典型を示している。栗島の爆破のような荒々しい行政はもちろん、あらゆる支援策が注ぎ込まれた。輪中堤の建設以降、政府は麻浦大橋と試範アパートの建設、国会移転など汝矣島を集中的に育てた。汝矣島小学校を卒業した生徒が汝矣島の中学・高校へ進学できる同系進学の特恵まで与えた末に、汝矣島地域は都心圏としての発展だけでなく、1970~1980年代の不動産上昇を牽引した。

当初から永登浦一帯の砂地と栗島を保全する開発政策を採っていたら、今日の汝矣島はどう変わっていただろうか。漢江は近年、新たな転機を迎えている。「漢江ルネサンス」という名のプロジェクトの下、ソウルが港になるという虹のような話まで聞こえてくる。輪中堤の築造以来、コンクリート開発で一貫してきた漢江の姿が今回はどう変わるのか注目される。

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