今から100年余り前。1919~1929年の米国では200万人の労働者が工場を解雇されたが、生産はむしろ増えた。当時、米国人口の10%程度いれば、大半の工業製品や機械装置を生産するのに問題はなかった。これを根拠にベンジャミン・フランクリンは、労働の拡散と既得権層の消滅を通じて、すべての必需品の生産が1日5時間労働で解決されると見通した。
そして100年余り、科学と技術は競うように生産の自動化を導き、効率性は目を見張るほど向上した。しかし今なお地球の一方には一日中働いても飢える人がおり、例外なくどの社会でも貧富の格差はさらに広がっている。人間を過酷な労働から解放してくれると信じられた技術と機械、そして科学は、なぜ普遍的な豊かさへの期待を裏切ったのか。
1990年に95歳で死去するまで、哲学・歴史・都市計画・心理学・生物学・社会学など多様な分野を渉猟し、計28冊の著書を出した著者は、技術と機械の発展を文明史的観点から眺める。著者は10世紀から産業革命以前の18世紀までを「原技術期」、産業革命から20世紀初頭までを「旧技術期」、それ以降を「新技術期」に分ける。
通常、産業革命を機械時代への転換点と考えるが、著者はそれ以前の時計・印刷機・火薬・紙といった発明が産業革命を支えた準備期間だと主張する。とりわけ時計は時間を守る習慣を普遍化し、輸送と産業の分業体系に寄与した。戦争は14世紀以降から機械化をあおり、さらに軍事主義を強化して標準化された大規模な産業発展につながった。
旧技術期に入ると、労働は生の必須要素ではなく目標そのものになった。機械の発達と都市への人口流入、高い出生率は、労働者を貧困と繰り返される窮乏に縛り付けた。石炭と鉄はその中心に存在し、無謀さと一発狙い、勝者独占主義という鉱業の習慣は社会全般に急速に広がった。著者はこれを「戦争状態と描写できる」と言い切る。人間の命をハエの命のように扱う生存競争、支配と屈従、絶滅の雰囲気が満ちていた。
本書で著者は、電報、ラジオ、電話、テレビなど意思疎通の時間的・空間的限界を超える機械装置の発展について批判的に眺めた。時が経つほど意思疎通の範囲は拡大するだろうが、その反対側にある書く・読む・描く・省察的思考や細やかな行動といった経済的な抽象手段は弱まると見た。蓄音機が普及すれば楽器を学ぶのをやめ、麻酔薬が考案されれば不要な手術が増えて死亡率が高まったように。
さらに、機械化がもたらしたより厳格な時間調整と即時の意思疎通が、人々の時間を断片化し注意力を散らしたと指摘する。現在、機械的な要求に知的に対応し検証する能力を備えないまま機械を増大させており、外部から押し寄せる刺激の中で内面は実際に重要なものが何かを見分けられないまま、次第に乾いて形を失っていくというのだ。
著者が強調するのは、機械を放棄せよとか手工業に戻れという話ではない。人間の想像力・知性・社会的な節制力を十分に発揮せよと求める。機械の使用が不適切な領域、廃棄処分すべき領域、非効率で調節が必要な領域を見分けられるときに初めて、機械が人間の目標達成に有用となり得るということだ。本書の初版が出てから80年、著者が世を去ってから20年以上が経つが、著者の慧眼は依然として有効だ。3万2000ウォン。






