2015-12-31 | 이신우

[李信雨(イ・シヌ)コラム]企業人の政治参加

本文はAIによる機械翻訳です。見出しは原文(韓国語)のまま表示しています。正確な内容は原文をご確認ください。

2015年末、企業の人員リストラの流れの中で、一つの特異な現象が大衆の集中的な関心と批判を呼び起こした。どの企業も経営事情が厳しくないわけはないが、Doosan Infracoreが入社して間もない20代の新入社員まで人員削減の対象に含めたことで、あまりにも度が過ぎるのではないかという言論と社会の叱責が相次いだのである。

もちろんDoosan Infracoreが企業である以前に社会組織の一員としてより深く考えていればという物足りなさはあるが、それでもこうした非難の中には一つ抜け落ちているものがある。企業の存在理由は利潤の創出にあるという点だ。それによって共同体により多くの付加価値と雇用を提供できなければならない。それが企業に与えられた本来の役割である。

これを可能にするのは企業の絶え間ない生産性向上と効率の極大化だ。生産性こそが企業経営のアルファでありオメガであるわけだ。いくら20代の社会人1年生であっても、生産性が賃金水準に著しく及ばないのであれば、まさしく経営に害を及ぼす行為といえる。企業経営者の合理的判断は、こうした効率阻害要因を排除することを求める。

一方、現代民主主義の政体がマクロ的な統合の次元で社会の落伍者を包み込むための福祉政策を強化するのは、極めて合理的な行為だ。企業経営と国家運営はこのように互いの領域を異にする。今回のDoosan Infracoreの人員削減をめぐる社会的論争では、これを混同していたのである。

企業の最高経営者(CEO)と政治家の最も大きな違いは何だろうか。一言で言えば、政治は公共性を、企業経営は効率を第1の価値として扱う。同一人物でありながら一方で大きく成功した人が他方では意外に失敗する場合が多いが、これは二つの分野が追求する価値の違いをきちんと理解していないためだ。

実際、企業で卓越した実績を上げたCEO出身者が公共分野を扱う政治家に転身した後、最も戸惑うのがまさに人を扱う部分だ。企業にいる時は配下の組織員に自らの経営理念を実現させるよう強く追い込むことができる。俗な表現を使えば「やれと言われればやる」ということだ。

ところが、これが公務員社会ではうまく通じない。公務員はまさしく法で身分を保護されているからだ。人事という刀があるとはいえ、解雇にまでつながることはない。死神に等しい政敵やマスコミの存在もまた、企業経営者が思い至らない伏兵である。

特に重要なのは民心だ。公共分野では企業経営で経験しなかった世論という恐ろしい相手が現れるのが常だ。効率のみを追求すれば公共性を無視しているという批判に直面し、直ちに「反民主」という烙印を押されてしまう。こうなれば政治家としての生命は終わりでしかない。

効率の低い公共部門を改革するため、時折、企業経営能力に優れたCEOが招かれるが、大きな成果を上げられずに退く例が多いのはこうした背景からだ。英国のデービッド・キャメロン首相は石油会社BPの元CEOであるロード・ブラウンを起用し、政府組織改革に企業精神を吹き込んでほしいと依頼したが、これまでどれほどの成果を上げたのか、依然として成功事例は伝わってこない。

韓国政府もサムスンの有能な経営者出身である李根勉(イ・グンミョン)人事革新処長に公務員社会の改革を任せている。だが、人事革新処長に関してこれまで記憶に残っているのは、彼がある公務員向けの特別講演の直後に「私の講演中に突っ伏して寝ていた女性研修生を探し出せ」と指示したという新聞記事だけだ。

先日、ペロン主義で国が疲弊してしまったアルゼンチンの大統領選で、企業家出身のマウリシオ・マクリ氏が大統領に当選し、世界から注目を集めた。マクリ大統領は内閣も完全に企業型で構成したという。経済政策を担うアルフォンソ・プラットガイ財務相は、米投資銀行のJPモルガンで役員として勤務した経歴があるほどだ。

果たして彼らはアルゼンチンの改革に成功できるだろうか。不幸なことに国家運営は企業経営とはまた別の問題だ。公共部門は生産性と効率だけで導けるものではないからだ。

韓国も今年と来年に総選挙と大統領選が待っている。久しぶりに訪れた政治の季節といえる。それなりに成功を成し遂げたと自負する多くのCEO出身者が、今ごろ国の進む姿と方向に絶望ともどかしさを感じ、政界進出への夢を膨らませているかもしれない。

だが、自らが企業経営の効率極大化に成功したからといって、政治的支持につながるという法はない。企業人の政界進出が慎重であるべき理由である。

/李信雨(イ・シヌ)論説室長 shinwoo@sed.co.kr

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