長年、旅行地の取材のためにこの山河をさまよい歩いてきたが、旅は景色を眺めることと同じくらい、人に会って話を聞くことが重要だということに最近ようやく気づいた。時には一人だけの旅を楽しんでみるべきだ。一人で出かけてこそ旅先の人に会って語り合うことができ、山の向こうにかかる夕焼けの「ディテール」がようやくはっきりと見えるということを、今になって知った。
一人旅の面白さにはまっている最近である。それで今週も一人で出かけようとしたのだが、韓国観光公社から「地域名士文化旅行」というプログラムを準備したと連絡があった。人に会う旅だというので、久しぶりに招請に応じて慶尚南道河東などを巡ってみた。
2日間のプログラムのうち初日に訪れたのは河東郡平沙里文学館。ドラマのセットとして建てられた崔参判邸も併設されている場所だ。140ha、汝矣島の3倍の面積に及ぶ平沙里の野原の地主・崔参判邸と小作人たち、その周辺の人々を中心に絡み合った愛憎と葛藤が物語の骨格を成した作品が「土地」である。
四方を山に囲まれ盆地のように見える平沙里のこの野原は、故・朴景利先生が1969年から実に25年間執筆した小説「土地」の舞台である。車を降りて崔参判邸へ向かう道沿いには、小説「土地」の主人公たちの名を冠した食堂や商店が軒を連ねていた。「土地」という作品が村の住民たちに商号の素材を提供し、生計の一助となっている姿は、崔参判邸の農地が小作人たちの口を養う手立てだったという設定と重なった。
崔参判邸の前に着くと、庭先に出ていた崔泳旭(チェ・ヨンウク)平沙里文学館長(詩人)が旅行取材団を迎えた。河東の生え抜きで、朴景利と「土地」に心酔し今日の平沙里文学館を築いた主人公である。崔詩人は「私がどうして平沙里文学館長になったのかよく分からない。次は『土地』より私の詩をめぐって話をしに訪ねてきてほしい」と冗談めかして笑った。彼は続けて「土地のモチーフは単純だ。蟾津江で洪水が起きると開峙の渡し場から乞食が入ってきて物乞いをして出ていった」とし、「あるとき、ここに入ってきた乞食の母子が飢え死にしながら『この家の倉庫には穀物が溢れるだろうが、その穀物を食べる子孫はいないだろう』と言い残したという口伝がモチーフになった」と語った。
彼は崔参判邸の小作人たちが冬の夜に集まって縄をなった使用人部屋の前で足を止め、平沙里文学館を開館することになった経緯の説明を続けた。「2002年にドラマのセットとして建てられた後、自治体が模索していた崔参判邸の活用策と、私が構想していた土地文学館の方向が合致したんです。文学館への転換の許しを得るため、原州の朴景利先生を七度訪ねました。しかし反対は頑なでした。朴景利先生の承諾を得られたのは、亡くなった朴婉緒先生の助けが大きかったです。わずかな年齢差にもかかわらず、朴婉緒先生は朴景利先生を母のように丁重に接していました。その方が『もう承諾してあげなさい』と言ったので、朴先生がようやく許してくれたのです」
崔館長は朴景利先生の娘婿・金芝河への愛憎についても語った。「短編『計算』でデビューした朴景利先生は1969年から『土地』を書き始めました。土地を書いている最中に金芝河に出会ったのです。故・池学淳主教が『人を一人送るから一週間だけ隠してくれ』と言い、それが金芝河でした。彼は隠れている間に先生の娘・金英珠とのロマンスが芽生え、結婚までしました。しかし民主化運動で獄を出入りする娘婿を先生は『仇』と呼びました。娘の金英珠は獄中差し入れに歳月を費やし、朴先生は孫の金元甫を引き受けて育てたようなものだったそうです」
崔参判邸の板の間に腰かけて崔館長の説明を聞いている間、日は岳陽の野原の西へゆっくりと落ちていった。その時間は、40年前のある寒い冬の日、民青学連事件で死刑が宣告されたあの「仇」が獄門を出てきたその時間ごろであった。
その日、記者の身分で金芝河の釈放を取材に行った小説家・金薫はその瞬間をこう回顧した。「金芝河の釈放を取材に行った日はひどく寒かった。記者たちが刑務所の前に集まってきた。ところが刑務所の向かい側の丘に、中年の女性がおくるみで赤ん坊(金芝河の息子・金元甫)を背負って立っていた。彼女はその寒さの中、長い間その場で獄門が開くのを待っていた。ついに金芝河が出てくると、支持者たちは彼を肩車に乗せて歌を歌った。しかし赤ん坊を背負った女性はただその場でその姿を見つめていた。その女性は朴景利であった」
その後40年の歳月が矢のように流れた。朴景利は2008年にこの世を去った。金芝河は世を去った義母の願いでも叶えたかったのか、「新しい人」となった。時間はすべてをそのままにしておかなかった。夕闇の降りる岳陽の野原も、時の流れに従って刻一刻と暗くなっていた。






