通商は戦争である。韓米自由貿易協定(FTA)改正と鉄鋼関税問題を決着させて帰国した金鉉宗(キム・ヒョンジョン)韓国産業通商資源部本部長も交渉結果を説明しながら、契丹に対抗して江東6州を得た高麗の徐熙将軍を引用した。米国を相手に10年以上、前線の最前列に立つ女性の「将軍」がいる。兪明希(ユ・ミョンヒ、52・写真)通商交渉室長である。公職生活の間に政治権力の浮沈はあったが、彼女は一貫して呼ばれ、交渉テーブルに座ってきた。盧武鉉政権で始まり李明博政権で終結した韓米FTAではサービス分科長を務め、朴槿恵政権では大統領府の外信報道官として勤務した。現在は通商交渉室長であり韓米FTA改正交渉の首席代表として、ドナルド・トランプ米大統領の強力な保護貿易主義の波を先頭で防いでいる。
光化門に位置する貿易保険公社の11階。そこに彼女の簡易事務室がある。韓米FTA第3回改正交渉を控え、出国を翌日に控えた時点。資料を読んでいた彼女の時間をインタビューで奪っていると思わせるほど、その机には読み切れていない報告書があちこちに置かれていた。
挨拶を交わそうとした矢先、彼女が携帯電話をのぞき込んだ。今年高校1年になった娘から届いたメッセージ。内容は学校で行われた英語スピーチの結果が良くなかったというものだった。娘にどんな慰めの言葉をかけるべきか悩む彼女に適切な助言はできないまま、まずは「少女・兪明希」の話から聞いてみることにした。
兪室長の幼い頃の夢は作家だったという。彼女は「小学1年の時からずっと書いてきた日記帳を保管している」とし「小学3年の時の日記に作家になりたいという内容が書かれている。児童雑誌に文章を応募したこともある」と語った。
兪室長はソウル大英文学科に進学し、作家としての進路を悩んだこともある。そんな彼女はどうして通商公務員の道を歩むことになったのか。「1990年代は世界貿易機関(WTO)が発足し、グローバル化の熱風が吹きました。妙に憧れを感じたのです」。韓国は当時、世界の列強から開放の圧力を受け始めていた時期である。1990年にはスイス・ジュネーブで進行中だったウルグアイ・ラウンド交渉に抗議し、李京海(イ・ギョンヘ)農漁民後継者協議会長が割腹自殺を図ることもあった。兪室長は当時を「1995年にWTOが発足する際、農業開放をめぐって先鋭な対立があり、痛ましい出来事が起きた」とし「開放という問題をめぐって先鋭な葛藤が国の内外で大きくなった」と振り返った。そのうえで「貿易で生きていくわが国において、通商の業務は国内の葛藤まで調整し、さらには世界を相手に韓国を守ることができる仕事だと考えた」とし「それにもかかわらず実際に韓国には経験の長い専門家がおらず、通商専門家が必要だろうという考えで通商に足を踏み入れた」と説明した。行政考試35回の兪室長は1992年から総務処の一般行政職として公職をスタートした。総務処で働く中、通商産業部が募集した第1期女性通商職に選抜され、1995年から通商専門家として名を知られ始めた。
彼女のあだ名は韓国版カーラ・ヒルズ。時が経ち、ウェンディ・カトラーというあだ名も付いた。いずれも1990年代と2000年代に米国通商代表部(USTR)を率いた女性である。彼女にあだ名が気に入っているか尋ねた。彼女は「1995年に私が通商産業部に入った時、米国の女性USTR代表がカーラ・ヒルズだった」とし「最も先頭に立って韓国に開放圧力をかけていた交渉家だった」と振り返った。敵陣の交渉家だったからだろうか。彼女は「私を韓国のカーラ・ヒルズに育てるという表現があったが、そうしたあだ名について特別な感情はない」と答えた。続けて「今はわが国でも通商分野で働く女性の後輩が非常に多い」とし「誰かを説明する時、もはや外国の著名人の名前を引用する必要はなく、わが国にも優れた通商分野の後輩や同僚がいる」と語った。
もしかするとカーラ・ヒルズやウェンディ・カトラーではなく、別に「ロールモデル」とする交渉家がいるのではないかという思いがよぎった。彼女に「難しかった相手や尊敬する交渉家はいるか」と質問した。彼女は「いない」と述べた。兪室長は「まだ特定の人物の姿よりも、どの道がより良いか絶えず悩んでいる」とし「誰もが同じ状況で同じ課題を与えられるわけではないので、自分だけの道を見つけることが重要だ」と述べた。やや気になったのか、答えの最後には上司である「白雲揆(ペク・ウンギュ)長官と金鉉宗本部長が好きだ」という言葉も笑いながら付け加えた。
交渉家として身に染みた堂々さが漂う彼女だったが、むしろ英雄談は聞けなかった。彼女は「自分が勝利したと思う交渉はあるか」と問うと「交渉において100%の勝利はなかった。交渉は55対45、あるいは49対51の結果として現れる」と答えた。そのうえで「特定のFTAや交渉に勝ったと言った瞬間、相手国が気分を害しかねない」とし「今も様々な会議の場で彼らと会っているからだ」と述べた。英雄談を聞きたかったのは、兪室長が2000年代半ばのシンガポールとのFTAで席を蹴って出て行った逸話がよく知られているからだ。彼女は「席を蹴って出るのはあまり使わない戦略だ」とし「相手が『兪明希はもともとよく立ち上がる人』と認識した瞬間、交渉はこじれ始める」と語った。そのうえで「席を蹴って立ち上がる背景には『ここまで譲歩したのに相手が新たなものを要求すれば立つ』というマジノ線がわが通商当局で合意されていたからだ」とし「徹底的に計算された行動だ。当時はシンガポールが新たな要求リストを私に渡してきたので、それを返して交渉場を離れ、その翌日すぐにわが方の要求通りに交渉が妥結した」と語った。
打って引くタイミングを捉え、相手を追い込む「将軍」としての気質は生まれつきのようだった。幼い頃に両親から「この子はどうしてこんなにはっきりと物を言うのか」と言われていた兪室長は、結婚後に母となって渡った米国留学中、冷徹な交渉家としての姿を息子に証明して見せた。兪室長は通商公務員になるなら米国法を学ばなければならないと、1999年に米国留学へ向かい、ロースクールの名門バンダービルト大で法学博士号を取得し、弁護士資格を取った。彼女は「33歳の子持ちの母親が、話も上手で賢い人が集まるというロースクールで競争するのは容易ではなかった」とし、20年前のロースクールの授業の一つとして行われた模擬法廷を思い出した。彼女は「模擬法廷での私の相手はロースクールの学生の中で最も優秀な学生だったので、周りの友人たちが頑張れと言っていた」とし「授業を受けた学生のうち10%に当たる外国人だった私が模擬法廷で『最優秀』賞を受けた。幼かった息子に母の誇らしい姿を見せたくて授賞式にも連れて行った」と語った。
兪室長が踏み出す一歩一歩は韓国通商の歴史だが、彼女は地位にこだわらないと語った。産業部初の女性局長・室長に就き、「ガラスの天井ブレーカー」という形容が付いて回るにもかかわらずである。彼女は「やりがいのある仕事が私に与えられるなら、その仕事をしたいだけだ」とし「国のために自分の能力が使われれば満足感を覚えるのであり、公務員として何かになるという目標に自ら価値を置いていない」と淡々と説明した。
50代を越えた彼女は、まだ引退後の人生を明確に計画しているわけではないが、新しいことに挑戦したいという意志だけは明確だった。兪室長は「最近は100歳時代なので、どの分野になるか分からないが、引退したら別の仕事を見つけてしっかりやってみたい」とし「これまで成し遂げた成果にこだわらず、ゼロから始められる仕事を見つけて挑戦してみたい」と述べた。
通商専門家になりたい後輩たちには「われわれの言語と文化と伝統はわれわれにとって大きな資産だが、国際舞台に出て外国語を自由に駆使するためにもっと努力しなければならない」という助言も惜しまなかった。兪室長は「東南アジア諸国連合(ASEAN)と欧州連合(EU)は互いに隣人を結び、自然に共同の利益を代弁できる状況にある」とし「われわれは中国・日本と東北アジアで括られているが、彼らがわれわれの利益を代弁してはくれないということを覚えておかなければならない」と強調した。 /朴炯潤(パク・ヒョンユン)記者 manis






