1939年4月1日、日本・岐阜県各務原飛行場。三菱の名古屋工場で2週間前に完成した新型機が試験飛行に臨んだ。設計を担当した堀越二郎は日記にこう書いた。「地上には風がほとんどなく、陽炎が見える。新しい戦闘機の前途を祝福するように」。搭載予定だった970馬力のエンジンの信頼性が不足し、試作1・2号機は760馬力エンジンを装着したが、期待以上の性能を出した。急降下試験で機体が壊れ操縦士が死亡する事故が発生しても、日本は量産と実戦配備を推し進めた。
配備年である1940年が日本の紀元2600年に当たるため「零式戦闘機(零戦・ゼロ戦)」と呼ばれる三菱A6M戦闘機(写真)は、デビュー戦で驚くべき記録を残した。1940年7月、零戦12機が1機の損失もなく中国(国民政府軍)空軍の戦闘機23機を撃墜した。真珠湾奇襲を含む太平洋戦争初期にも零戦は名声を保った。長い航続距離と速い速度、小さい旋回半径で米陸軍と海軍航空隊の旧型機、アジアに配備された英国製スピットファイア戦闘機(初期型)を簡単に打ち負かした。米軍は1対1の空中戦を避けよという緊急指針を操縦士たちに出した。まさにここまでが零戦の全盛期である。
1942年末から米海軍に新鋭機が供給され、米陸軍も欧州戦線に優先配備していた新型戦闘機(P-38)を太平洋に回し、戦闘期間中の空中戦の優位は逆転した。決定的に、干潟に不時着した零戦を入手した米軍は、長所より弱点の多い戦闘機だという結論を下した。米軍は零戦が2,000馬力以上のエンジンを積んでいると予想したが、1,000馬力にも及ばなかった。日本が常識外れの軽量化を達成して飛行性能を引き上げていた事実が明らかになった。操縦席の防弾板も燃料室の保護膜もなく、無線機の性能が悪く編隊飛行さえ手信号に頼っているという事実も判明した。
米軍はこんな分析まで残した。「軍用機として不適合な機体である。華やかな民間曲技飛行機に機関砲を付けただけだ」。英国が性能不足のため開発を放棄したグロスターF.5/34の無断複製品だという酷評も出た。敵の短所を完全に把握した米軍は、マリアナ海戦ではまるで「七面鳥狩り」のように零戦を撃ち落とした。決定的に日本はベテラン操縦士たちを消耗戦に追い込んで失った。熟練工をむやみに徴集し、後期型の性能が初中期型より劣るという茶番も起きた。今も軍国主義復活を夢見る日本人は零戦を「世界最強の日本軍」の象徴として挙げる。当の米軍は「外見ばかりで中身が乏しい」典型と評価していたのに。






